2話 選択
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この世界に来てから様々な理不尽にあってきた。
しかしアスミは一切の抵抗をしなかった。
監禁されていた時も、縛られ崖に吊るされた時も、自分でも不思議なくらい従順だった。
カラスに襲われた時はさすがに動揺したけれど、それでもどこか他人ごとみたいだった。
ここが異世界だと、本能でわかっていたからだろうか。
全てが夢の中の出来事のようで、運命に抗う気が全く起きなかったのだ。
それなのに、ドラゴンに問いを立てられた今は、迫り来る死への恐怖に全身が激しく震えている。
言葉には魂が宿ると言う。
「生きたい」と口にしたことで、消えかけていたアスミの生存本能が、蘇った。
「よし。その言葉、絶対に忘れるな」
黒曜石のように光るまなこがピタリとアスミに据えられる。
ゴクリと唾を飲みながらアスミは大きく頷いた。
激しい稲妻があたりを白く照らした。
世界が終わるかと思うほどの雷鳴だった。
アスミは反射的に目を閉じる。
次の瞬間、ぶつり、と聞き取れない音がして、体がふっと軽くなった。
目を開けると至近距離に、ナイフをくわえた黒髪の男がいて、何の足場もない空中にすっくと立ち、アスミを抱きかかえていた。
「え……?」
切れ長の目の奥にある、黒光りする瞳に見つめられ、心臓が激しくざわめく。
驚いているアスミの前に、今度は、白い毛玉のようなものがぴょこりと顔を出した。
「初めまして。アスミ」
ピンと立った長い耳、ふわふわの毛、赤くつぶらな瞳のそれは、可愛らしいボーイソプラノでアスミに話しかけてきた。
そこはかとなく小生意気な佇まいに、アスミは路地裏に消えたうさぎを思い出す。
「あなたは……あの時の白うさぎ!」
「わーい。よくわかったね」
白うさぎは嬉しそうに鼻を鳴らすと、背中に生えた天使みたいな羽をパタパタと揺らした。
「ふん」
男がうさぎに向かって首を振り、何か合図をした。
「あ、ごめんごめん」
うさぎが男の口からナイフを取ると、男はアスミにこう告げた。
「……目を閉じてろ」
どこか聞き覚えのある声に、アスミは両目を見開き、どこで耳にしたのか確かめようと、男の黒い瞳をまじまじと覗き込む。
言うことを聞かないアスミに、男は焦れたような表情を見せたが、
「時間がない。行くぞ」
いきなりアスミの体を、天に向かって放り投げた。
「え……ああっ……」
アスミの体は火柱を超え、黒い雲に覆われた空が一瞬近づいた。
しかしすぐに自然の摂理に従い、落下を始める。
地面に叩きつけられ、粉々になる数秒後の未来を、アスミはくっきりと頭に描いた。
しかし、アスミの背中は、ふわっとしたものに支えられた。
運良く茂みにでも落ちたのだろうか。
慌てて体を返したアスミは、小さな悲鳴をあげた。
茂みだと思ったのはたてがみで……。
アスミは飛翔するドラゴンの背中にいた。
「上昇するぞ。しっかり俺につかまってろ」
ドラゴンの声が聞こえてきた。
ものすごい声量に、周りの空気がピリピリと震えている。
しかしアスミが驚愕したのは、それとは別なことだった。
(この声は、さっきの人と同じ……!)
「あの……」
声をかけようとした時、うさぎが「危ない!」と叫び、ドラゴンは巨体をうねらせた。
炎の中から放たれた矢が、ひゅん、とアスミの頬を掠める。
「俺に逆らう奴が居る……?」
上昇しかけていたドラゴンがピタリと止まった。
うさぎはアスミの傍に浮いていたが、落下する矢を目で追いながら、やれやれといった表情で肩を竦めた。
「……やっぱり、すんなりとは終わらないみたいだね」
背中についている小さな羽がパタパタと小刻みに動いている。
「行くぞ!」
ドラゴンは下降を始めた。
アスミはたてがみにしがみつき、吹き飛ばされそうになるのを必死に堪える。
ドラゴンは村の上空で止まった。
地上を見下ろせば、村人たちがドラゴンを指差し、右往左往している様子が目に入った。
両手を合わせ、祈りを捧げている者もいる。
「慌てふためいてるね。喧嘩ふっかけてきたのはそっちのくせに」
うさぎのつぶやきが聞こえてきた。
アスミの心は鉛を飲み込んだように重くなっていた。
こんな場所からは早く立ち去ってしまいたい。
早く道標が欲しかった。
ドラゴンがアスミをどこかに連れて行くつもりなら、早くそうしてほしかった。
ドラゴンが大きく鎌首を持ち上げ、アスミは背中から転げ落ちそうになり、慌ててたてがみにしがみついた。
そして次の瞬間、視界が一気にオレンジ色に染まった。
体が燃えるように熱くなる。凄まじい轟音に、鼓膜が小刻みにビリビリと震える。
(何、これ……)
チカチカする目を見開いて、下を見ると、炎に包まれた村が目に入った。
(え?)
ドラゴンはゆっくりと空を旋回し、地上に向けて再び炎の息を吐きかけた。
禍々しいオレンジ色が広がっていく。
その中に数人の人型が見えて……人の焼かれる匂いが鼻腔をついた。
「何するの!」
アスミは叫んだ。
村が燃えている。
オレンジ色の炎が、まるで生き物のようにうねうねと燃え広がり、畑を、家を、そして人を飲み込んでいる。
「ひどい……なぜこんな……」
声がみっともなく震えている。
「さっき矢を射られただろう。こいつらはお前を直接殺そうとした。当然の報いだ」
「そんなの……何かの間違いかも!」
「……矢が、自然に降ってくるのか? 馬鹿な」
ドラゴンはせせら笑った。
「あるかもしれないわ。だってここでは不思議なことばかり起きるもの」
アスミは叫んだ。
言葉をしゃべる人外の者。
火を噴くドラゴン。
謎だらけの夢のような世界。
(本当に夢なのかもしれないわ……そうよ。私は悪夢を見てるのよ)
冷徹な声が投げかけられる。
「現実から目を背けるな。ここの連中はお前の命を狙っている。それに全てはお前が選んだことだぞ」
「どういうこと……?」
「生贄を捧げなければ村は滅びる。お前はそれを知っていた」
アスミははっとした。
アスミに縄をかけるとき、村人達は何度もそう言って、こらえてほしいと涙を流した。
アスミの犠牲で、村は救われる。
助けてほしい、と。
「でも……まさか、あなたが村を滅ぼすなんて……」
アスミは口ごもった。
「知っていたらやめたのか? お前が、奴らの代わりになると? 見上げた犠牲的精神だな」
小馬鹿にしたような声だった。
「それは……」
うさぎが声を顰めてドラゴンに話しかける。
「もうっ、デリカシーがないんだから。少しはアスミの気持ちを考えてあげなよ。女の子には言い訳が必要なんだよ。この殺戮にアスミは関係ない。嘘でもいいからそう言ってあげてよ」
嘘でもいいから…。
容赦ないその言葉に、アスミは愕然とした。
やっぱりそういうことなのだ。
自分のせいで大勢が死んだ。
このまま手をこまねいていては、村が全滅してしまう。
「お願い。やめて。これ以上、人を殺さないで」
アスミはドラゴンの固い背中を思いっきり蹴った。
激しい後悔で心臓が波打ち、声がみっともなく震えている。
巨大な目がギョロリとこちらに向けられた。
「相変わらず足癖が悪いな」
「え……?」
「まあいい……お前の気持ちはよくわかった。すぐに済ませてやる」
無情にもドラゴンは地上に向け、再び炎を吹き付けた。
「ああ……!」
炎がぐんぐん広がっていく。
アスミは天を仰いだ。
時々雷が鳴っているのに、雨は降らない。
アスミの頬に涙が落ちる。
「人が死ぬのはそんなに辛いか」
ドラゴンに聞かれ、アスミは拳で涙をぬぐった。
「当たり前でしょ」
「お前が泣いても失われた命は戻らない」
無情な言葉がアスミの胸を切り裂いていく。
「お前は正しい道を選んだ。だから生きてる」
眉ひとつ動かさず殺戮を行なった張本人は、しかし奇妙に説得力のある声でこう続けた。
「これからも様々な選択肢がお前の前に現れる。その時には、必ず自分に得になる方を選べ。そうすればこの先もずっと生きていられる。間違っても……誰かの代わりに不幸にはなるな」
こんな獣の言うことに、耳を傾ける必要などない。
そう思っているのに、なぜだかつい、聞きいってしまう。
「そろそろ戻ろうよ。もう誰も残っていないみたいだし」
うさぎが早口でドラゴンに話しかけてきた。
「わかった」
ためらう様子を見せたものの、ドラゴンは大きく翼を広げ、ものすごいスピードで雲に向かって昇っていく。
雲を突き抜けた時雷鳴がとどろき、地上に雨の降り注ぐ音がした。
「雨だ……でももう手遅れだわ……」
いや、でも分からない。
天からの恵みが、悪魔の与えたオレンジ色の炎を、一刻も早く消し去るよう、アスミは心の中で懸命に祈った。